明日があるなら
先週、僕はひよこ先生の所でも最後の診察を受けてきた。
実は、医療保険との兼ね合いで、旅から帰ってきても今後は余程のことがない限りひよこ先生に診察してもらうことはできない。
つまり、今回は、もう僕の「うつ」は治癒しましたよという確認をもらうための診察でもあったわけだ。
ひよこ先生
「いよいよ、世界一周ですね。」
「はい。けど、もう準備やら何やらで最後まであまりにも忙しすぎて、正直それを実感する余裕も全く無いですけど。(苦笑)」
「ははは、そうか。それは大変でしょうね。
じゃあ、まあとにかく、今回はお薬も出さずにこれで治癒っていうことにしておきましょうね。」
「…はい、先生。今までほんとにありがとうございました。
ここまで来れたんはほんまに先生のおかげやと思ってます。」
そんなつもりはない、全くそんなつもりはなかったんだけど、この時僕は、自分の頬に涙が伝っていることに気付いた。
そして同時に、そんな自分に驚いて、それがまた更なる涙を呼んでしまった。
ここに来るのがもう最後かもしれないということを少しでも考えたのが大きかったのだろうか、
そこからの僕は、もう堰を切ったように思い出や感情が次から次へと溢れ出してきて、結局何度も嗚咽しながら言葉を続けた。
「正直ね、2年半前に初めてここに来た頃には、口では『病気を治していつか世界一周する』なんて言ってましたけど、ほんまにこんな日が来るなんてことは想像すら出来てませんでした…。
それを、先生にはほんとによくしてもらって…。
僕ね、他の病院に行くのはすごく憂鬱で嫌いなんですけど、電車に乗ってここに先生に会いに来るのだけは全然苦じゃなかったんです。
むしろ、楽しみやったくらいで…。
もし先生に出会ってなかったら、僕は多分世界一周なんて到底実現できてません。
それどころか…。
あのね、ほんとに先生は僕の人生の…、
恩人なんです…。
ありがとうございました…。
ありがとうございました…。」
溢れる涙で言葉に詰まる僕に対し、
ひよこ先生はいつものようにただ優しく笑っていた。
「いやいや、私は何にもしてませんよ。
頑張ったのはたかゆきくんです。
たかゆきくんはほんとに頑張りましたもんね。
長い間お疲れ様でした。
気を付けて世界に行って来てくださいね。」
この後僕は、赤く腫らした目ですぐに受付に向かうのが恥ずかしかったので、もう少しだけひよこ先生と談笑して、旅のお守り代わりに先生の写真を撮らせてもらったりしてから、何度も何度も深々とお辞儀をして診察室を出た。
でも、せっかく時間を掛けて受付に向かったのに、いつもの受付のお姉さん二人と最後の挨拶をしている内に、結局僕はまた感極まって涙を流してしまう。
この二人にも、色々な複雑な手続きを手伝ってもらったり、いつも僕の診察時間のわがままを聞いてもらったり、長い間ほんとにお世話になったのだ。
そして、大人気無く涙を流す僕に対して、なんと彼女達二人も涙を流してくれた。
「私達も、いつもたかゆきさんとお話するのがすごく楽しかったです…。
寂しくなりますね…。
どうかお気を付けて行かれてください。」
「はい、気を付けて行って来ます。
じゃあ、今までほんとにお世話になりました…。」
そして僕は、もう一度深々とお辞儀をして、病院を出ようとした。
が、その時、
受付のお姉さんの一人が、立ち去ろうとする僕に対して遠慮がちに声を掛けてきた。
「あのー、場に水を注すようで申し訳ないんですけど、たかゆきさん、今日のお金をまだ頂いてません…。」
…あ。
この後、一転、受付は僕達の大きな笑い声で包まれた。
ここが心療内科であることがまるで嘘のように。
他の患者さんも何事かと驚いたことだろう。
でも、きっとあの人達も、いつか、いつの日か、こうやって心から笑える日が来ると思う。
それを今僕が証明している。
そして、僕はあの病気からここまで回復したけど、こういう根本的なドジなところなんかは何も変わっていないのだ。
それでいい。
それでいい。
ひよこ先生、今まで長い間、ほんとにお世話になりました。
先生の優しい笑顔は、どこに行ってもずっと忘れません。
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