前編からの続き…。
夏の朝の光が照りつける、いつもの帰り道。
右手にギターケースを持った僕の後ろを、少し遠慮がちについて歩く彼女は、座っていた時には分からなかったが、思っていたよりも背が低く、家出少女とは思えないほど手には荷物らしき物を何も持っていなかった。
彼女はほんとに着の身着のまま家を飛び出したのかもしれない。
ただ、そんな事を質問するような技量を、この時の僕が持ち合わせているわけもない。
何度も言うが、今まで僕は、1対1で女の子とまともに喋ったこともないし、ましてや女の子と一緒に歩くなんて経験は皆無に等しいわけである。
それを証拠に、さっきから暑さ以外からくる妙な汗が額からジャンジャンにじみ出てくるし、京橋駅を出発してから約5分、僕らはまだ一言も言葉を発してない…。
いつもはただうるさいだけのセミの鳴き声も、今日に限ってはこの沈黙をごまかすのに少しは役立っているようだ。
しかし、ほんと、
なんでこんなことになってしまったんだろう。
「ねえ、やっぱり迷惑やなかった…?」
もう少しで実家のマンションに着くという頃、ふと気付くと、いつの間にか彼女が僕の右隣にいて、僕の顔を覗き込んでいた。
わ!
僕は慌ててギターを左手に持ち替えて、頭をかきながら答える。
「あ、あ、うん。
まあ、それは大丈夫なんやけど、とにかく、オカンと兄貴だけには見つかりたくないから、そこだけ気をつけてもらえば…。」
「うん、わかった。
気いつける。」
家に着いてから、誰にもバレずに彼女を自分の部屋に連れて行くのは、思った以上に簡単なことだった。
この時間帯は母親も兄もぐっすり寝ている時間だから、それはそうかもしれない。
彼女に靴だけは持って上がってもらい、鍵のついていない自分の部屋のドアは、念のため長いつっかえ棒で外側からは開けられないようにする。
これで完了。
ふぅ、と僕はとりあえず安堵の溜め息をついたが、ふと現実に戻り、よく考えてみると、今からこの6畳の狭い部屋に僕と彼女の二人きり。
・・・・・・・・・・。
さて、どうしたものか…。
「え、えっと、君ももう眠いやろうから、そこのベッドで遠慮せず寝てしまってね。
俺は、もう、どっかその辺で適当に寝るから。」
「そんな、ウチだけベッドで寝ていいの…?」と言う彼女を半ば強制的ににベッドの上に上がらせた僕は、会話から逃げるために本棚からマンガ本を手に取り、木製のベッドの端にもたれかかるようにフローリングの床に座り込んだ。
彼女はまだ何か言いたげだったが、僕がマンガ本を手に取ったのを見てあきらめたんだろう、そのままベッドで横になった。
「今日は、ありがとう…。」
しばらくしてベッドの上からそうボソりとつぶやく彼女に、僕は背を向けたまま答える。
「あ、うん…。」
「起きたら、ちゃんと出て行くからね。」
「うん…。」
「おやすみ。」
「あ、うん、おやすみ…。」
そこからは、長い静寂が始まる。
電気を点けなくても、カーテンのすき間から差し込む朝の光でもう十分に明るくなってしまったこの部屋に、扇風機の回転音だけが静かに響いている。
僕はさっきからマンガ本を開いてはいるが、内容などは頭に入ってこない。
ずっと、今日の出来事がフラッシュバックのように流れているだけだ。
確かに昨晩僕は、いつものようにギターを持って京橋駅に向かった。
そして、いつものようにギターを弾いて時間を過ごした。
ほんとなら、それだけのこと。
けど今、家に帰ってきた僕の背中越しには、見ず知らずの女の子が僕のベッドで眠っている…。
なんでこんなことになってしまったんだろう。
僕はマンガ本を閉じ、床に仰向けに寝ころがる。
フローリングの床は、寝るのには確かに硬いが、ひんやりとして今は逆に少し気持ちがいい。
天井の木目をぼんやり眺めながら、今度は彼女の事を考えてみる。
家出してきたって言ってたけど、なんで家出なんかしたんだろう。
家はこの近くの子なんだろうか。
男の家に泊まる事に抵抗は無かったんだろうか。
これは、ちょっとした家出なんだろうか。
そしてなにより、これから一体どうするつもりなんだろう…。
いろんなことが頭に浮かぶが、もちろん勝手に一人で考えたって答えなど出てくるわけもない。
僕はやっぱりもう考えるのをやめて、ただ目を閉じた。
それから15分くらい経っただろうか。
僕がようやく眠りと現実の境目をさまよいだした頃、どこか意識の遠くの方で、彼女の声が聞こえた気がした。
ん?
僕はゆっくりと意識を現実世界に戻す。
「ねえ、もう寝ちゃった?」
今度ははっきりと現実の声だと分かった僕は、慌てて答える。
「え?
い、いや、まだ寝かかってたとこ…。
どうかしたん?」
「うん。
あのね、やっぱりウチが勝手に部屋にお邪魔しといて、ウチだけがベッドで寝てるっていうのはどうかと思ってね。
床やったら寝にくいやろうから、もしよかったらベッドで並んで寝えへんかなあと思って…。」
え…!?
・・・・・・・・・。
あまりにも予期せぬ彼女の言葉に、僕は完全に目が覚める。
「え、いや、あの…。
俺は、全然ここで大丈夫やし…。
ふ、ふたりで寝るにはそのベッド狭いやろうし…。」
「大丈夫。
狭かったら、ウチちゃんとつめるから。
それに、そんな変な意味やないよ…。」
「それは、も、もちろん、分かってる…。
ただ、ほんま、気使ってもらわんでいいから…。」
「だって、ほんまにウチ気になって寝られへんねんもん。
お願い、上がってきて。」
「・・・・・・・・・・。」
世の中には日常と非日常があって、きっとこの時がその2つの道への最後の分岐点だったんだと思う。
そして僕は、時の流れに身を任せて、結局このまま非日常への道を進んでいくことになる…。
5分後。
彼女の横で、僕は、ただただ鉄の棒の様に固まっていた。
僕のシングルベッドでは、2人で寝るのにはやはり少し狭く、いくら小柄な彼女が壁側につめても、どうしても僕の右腕が時折彼女に触れてしまうからだ。
こんな緊張状態の中では余計に眠れるわけがないなあと思い、じっとりとあぶら汗をにじませ、黙ったままただ天井の一点を見つめる僕に、彼女は少し照れ笑いながら言う。
「ふふ。
なんか、こんな状態じゃすごい不自然やし、ウチますます寝れそうにないわ…。」
そこで僕は、思い切って正直に答える。
「うん、俺もそう思う。
寝れそうにないわ。
だって恥ずかしいけどほんまのこと言うとな、俺、今までこんな風に女の子と2人で同じベッドで寝たことなんて一度もないねん。
この部屋に女の子が入ってきたのも初めてやし、それどころか、今まで女の子と2人でまともに喋ったことすらないねん。
だからな、さっきから俺、ほんとはめちゃくちゃ緊張してて、ずっとどうしていいか分からん状態やねん。
笑うやろ…。
・・・・・・・・。
うん、やっぱり俺、下で寝るな。」
そう言って僕が下に下りようとすると、彼女が首を横に振って、僕の腕を引っ張った。
「全然、笑わへんよ。
ただ、そんな風には見えへんかっただけ。」
彼女は続ける。
「あんな、ウチのほうこそ笑わんと聞いて欲しいねんけど、やっぱりどうしても下で寝られるのは嫌やねんか。
そんで、これ言うのすごい恥ずかしいねんけど、もしよかったら腕まくらしてくれへんかなあ…。
そんなら、不自然じゃなく、ウチも安心して寝れると思うねん。」
自分の気持ちを正直に話した後の僕は、そんな彼女のお願いに、もうそこまで驚くこともなくなっていた。
「けど、俺、さっきからすごい変な汗いっぱいかいてて気持ち悪いし、第一腕まくらなんて、やり方が分からへんで…。」
「大丈夫。
汗はウチもいっぱいかいてるから一緒や。
そんなら、右手出して。」
僕は言われるがまま右手を彼女の方向に伸ばす。
その腕の真ん中くらいに、彼女が頭を乗せる。
「うん。
それで、腕の力もっと抜いていいよ。」
言われるがまま強張ったままの腕の力も抜いてみる。
すると、腕から伝わる彼女の体温が急に身近に感じられて、僕は少し不思議な感覚に陥った。
「はい、これで腕まくら完成。」
「…うん。」
「そんで、ほんまにウチも汗びっしょりやろ?」
そう言われると、確かに彼女の首筋は汗でしっとり濡れている。
「ほんまやな。」
ハハハハ。
2人は今日出会った中で一番近い距離で笑いあう。
皮肉な事に、これが、僕にとっては一番非日常であるはずの腕まくらが、僕が今までずっと感じてきた緊張感というものをすべて消し去ってくれた瞬間だった。
しかし、そんな時間も長くは続かない。
「そういえば、キミってほんとにギター上手やね。」
しばらくして、僕の腕の中で彼女がつぶやいたこの一言から、彼女のある長い告白が始まることになったのだ。
「いや、まだまだ全然うまくなんかないよ。」
そう照れながら答える僕に、彼女が言う。
「けどね、ウチの旦那もギター結構うまかったんよ。」
「え!?」
この後、僕はとにかく最後まで彼女の話をていねいに聞いた。
今のこの状況で、僕がしてあげられることは、それぐらいしかなかったから…。
ただ、その内容というのは、正直僕にとって驚きを隠せないことばかりだった…。
それは、
彼女が16歳の時に結婚していたということ。
相手は30代後半の男性だったということ。
二人の間には、1歳になる子供がいるということ。
けど、二人は半年前に離婚したということ。
その子供は、裁判所の命令で、夫側に引き取られたということ。
その後、彼女は実家に戻ったということ。
そして昨日、その実家からも彼女は家出したということ…。
話の最後の方になると、彼女はとうとう僕の首元ですすり泣きをはじめた。
その時、突然彼女側の壁が、ドンと鳴る。
どうやら、僕らの話し声で隣の部屋の兄貴が起きてしまったらしく、無言のアピールをしているようだ。
けど、今の僕にとっては、もはや兄貴への体裁なんてどうでもよくなっていた。
それよりも、もっと大事な事がある。
僕は迷わず汗ばんだ彼女の体をしっかりと強く抱きしめた。
それは、決して恋愛感情や同情からなどではない。
話を最後まで聞いてあげたのと同じく、この時の僕にはただそうすることしかできなかったのである。
あたかも、初めからこうなることがすべて決まっていたかのように。
生まれて初めて抱きしめた女性の体は、思っていたよりもとても小さく、しっかり抱きしめてあげないと、すぐに壊れてしまいそうなモロいものだった…。
つづく…。
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